TRPGサイトに論考はいらないか

TRPG全体についての包括的論考をよく見かけるが、あれは一体どのような意味があるのだろうか。勿論、俺もそういった論考を書いたことがないとは言わないが。
10年前なら、TRPGといえばソードワールドか、ガープスか、ノバか、あるいは古参D&Dで片が付いていた。しかしながら、時代の移り変わりというのはやはりあるもので、今では魅力的なゲームが様々に存在している。ここで各々のゲームの共通項を探す方が困難だ。ゲームの統一基準となるガイドラインがあるわけではなく、古のD&DやRQやトラベラーその他もろもろのRPGをスタート地点にして、様々な方向に拡散しつつゲームが作られ、遊ばれている。
一体、世の中の全てのRPGについて考察した結果生まれ、全ての環境でそれが有意味となりうるような論考など存在するのか。もちろん答えは「否」だ。
対象が多様化し分散している以上、あるテーマについて意見を述べようとすれば、各論的になるのは必然の流れだ。対象を限定して語られるべき事項である。では、そのような限られた対象に対する個人の論考は必要とされているのか?

有用な記事と無用な記事

単純に言えば、読み手が読みたい文章が有用な記事で、そうでない記事は無用な記事である。
それ自体が読み物として面白い記事であれば、皆読むだろう。これは有用な記事である。
また、書き手が自らの経験から導き出したある事柄について記事に書き出す場合、その結果によっては有用であろうが、これは他者が導き出した事柄と多くの場合衝突するため、隠しておくほうが無難だ。なぜなら、書き手と読み手は経験において異なり、違う結論を導き出すのもまた容易であるからだ。これは多くの場合参考程度にしかならない。それならば、自らの経験そのものを読みやすくまとめた方がナンボかましだ。
オフィシャル側が積極的に用意しない場合、データは有用だ。リプレイ、プレイスタイルの公開などはいつでも歓迎される。システムデータの場合、オフィシャルサイドが出すもので整合性が取れているため、大体は無用になりがちだ。もしデータが何百と超大量にある場合有用になるが、それなら綺麗な挿絵でも書いてコミケで売ったほうが良い。Land of the Guiltyなどの超大量設定本、D&Dのサプリなどのような超大量データ本はそれだけでオフィシャル提供本として売りに出されている。逆に言えば、それだけの整合性と魅力ある中身を持たなければ価値がない。

読み手を意識した文章とは

まぁ、俺が読み手を意識した文章を書くわけはないので、このあたり適当に書き散らす。
限られた対象に対する一個人の意見が求められるのは、その一個人がどの視点からそのような意見を発しているのか読者が判別しやすい場合が多いのではないだろうか。
つまり、書き手は、そのような意見を発するに至った各状況をできるだけ明確明快に記述すべきであることになる。
例えば、コンベンションの経営方針とあるべき形態についての論考を書くとしよう、その時に必要とされるのは、
自分が開催者となったことはあるか。何回か。どのような地方でか。どのような内容でか。参加者となったことはあるか。どの地方で何回、どこでか。
などなどの情報であり、これは個人情報を含む。かといってこれらの情報を出さなければ、書き手の立場がわからず、そのため読み手は書き手の論の評価ができなくなるのだ。
勿論、このような情報がいらない場合はある。それ以外に、ある特殊な立場から書いているということで注目される可能性がある場合、例えば、あるゲームのデザイナーであるとか、書き手が女性であるとか、カリスマGMであるとか、自称日本TRPG界を背負って立つセミプロ集団の一員(プゲラ とか。ああ、あと、この文章みたいに愉快犯であることが確実な文章とかね。ねぇ、四天王の先生達?

快適なTRPGを行うのに必要な能力

1.一桁の足し算引き算を行う能力。
2.目の前にいる人に指摘されても平然と嘘をつき続けない誠実さ
3.「おはよう、いい天気ですね。」といった時に「そうだろう、僕のルーチェちゃんはとっても可愛いだろう」と返してこないだけのレスポンス能力
4.コンベンションの会場に向かう間にアニメ柄のルールブックを開いて朗読しはじめないだけの社交性(電車の中とかはokにしておこう)。
5.「ぐへへ」「げひひ」「ふへへ」と日常会話で言わないこと。
6.人が嫌がっていることに気づくだけの判断力と、逆切れしないだけの忍耐力
7.思いやり

「碩学問題」の包括的批判に対する斜め読み。

 硯学とバカの話でこれほどまでに拳で語り合いをできるのは羨ましいと思うよ。うん。
 どっちかっつーと、回転翼氏の周囲環境への言及と白河堂氏のTRPGの社会的影響に関する話は、論理的考察というよりは互いの精神の基盤をかけた殴り合いなので、互いに触れない方が幸せだと思うんだけどなぁ。白河堂氏は大した論客だと思うけど、そのあたりに優しさが感じられないと思った。そして回転翼はそのあたりのことを無意識的に自覚していて、殴り返せないでペシミスティックに卑下慢を繰り返しているんじゃないかという気がした。気がするだけだけどな!
 まぁ幾つかコメントしとかないと不義理じゃねーかという気がするのでコメントアウトしておくと、

硯学とバカは対比項なんかね?

 硯学の対比項はバカじゃなくて嫌学だろと。俺みたいなバカで嫌学な連中も相当数いるけど、バカで硯学な人も相当数いるんじゃね? で、硯学な連中のうちエリート気取りの連中は相当数そういう連中で占められてるんじゃね? 頭のいい人はwebで論考なんて書かないからさ(おおっと!)

TRPGやってる人は収入が低い?

 うーんと、これは幾つも読み方ができるよね。

TRPGを遊んでいる人間は収入の低くなる職業に就くような蓋然性が高い。
TRPGを遊んでいる人間はどのような職業についても収入が低くなる蓋然性が高い。

 実際の話、これ以上にも何パターンにもリストアップできるんだが。それについてそれぞれ議論と反論の余地があり、それぞれがそれぞれの精神基盤に基づいてるんで「精神の殴り合い」にしかならないという気がかなりするが、自分の周囲に限定した非統計学的な意見で発言すると
 貧乏人の周りには貧乏人が多い
 というだけのような気がするな。
 まぁ、TRPGプレイヤーというか、ゲーマーにはエネルギッシュでデキそうな人間に見える人はあんまりいない、とか、社会的に重度の影響を及ぼす精神病患者が多い、とか(これは「潜む闇」とかで言ってなかったっけ?)色々蓋然性が高くなるような要素はあるよな。が、それは根本原因が違うところにあるんだからサという話で。

 まぁ結局は何が言いたいかというと、論考ってあなたにとって正しいこと言うよりお金と権力を身につけた方が読者が増えてアフィリエイト収入でウハウハですよと。

虚構に対する敏感と鈍感

 昨日出した結論をT屋氏にぶつけてみた。返ってきた結論はこうだった。
 「それは君がその手の感覚に対して敏感であり、そうでない人はその手の感覚に慣れきって鈍感なだけではないか。例えば辛さに対する感覚と同じように。」

 つまり、こういうことだ。
 一話で物語の持つ重みを表現するため、TRPGは強度のカタルシスを発揮させるように進化した。それはより悲劇の質が濃く、プレイヤーに負担を要求する。しかし、その負担に慣れたプレイヤーは味に鈍感になるように、悲劇に対して鈍感になる。そのため、より強度の悲劇と、より強度の物語性を、日常逸脱性をストーリーに求める。その結果、その悲劇と物語性の深化についていけないプレイヤーはその刺激の強さに耐えられないのだ…と。
 はたしてそうだろうか?
 俺は、この場合でいう"FEAR系"のゲーマーを決して鈍感だとは思わない。むしろ自分よりよほどセンシティブだと思う。しかし、実際のところはどうなのだろうか。
 つまり、自分はもう現行の虚構を楽しむことができないほど致命的に、虚構に対して不慣れになってしまった人間なのか。
 それとも、この種のプレイヤーが、虚構における刺激の強さに慣れきってしまった状態だから、そうなのだろうか。
 

メタゲーム視点ではなくメタストーリー視点

ゲームデザイナーのT屋(殊に名を秘す)氏と宴席で会話する機会があった。
そこでシミュレーションゲームとしてのTRPG、物語としてのTRPGなどの話をしていたのだが、俺は面子も面子だったので、思い切ってこう発問してみた。
「皆は、なぜ、"FEAR系"で括られるような、悲劇的で、救いようのない…明らかに死が迫っているだけで、もうその状況を打開する方法がないキャラクターを、演じることが出来るのか? もうどうしようもないことが、プレイヤーが理解できているのに、なぜそこに、身を投じることが出来るのか?」
俺が言っているのはブレカナあるいはダブクロに代表されるゲームだ。キャラクターの勝利が決して無いことが、システムで暗示されている。こうしたシステムをたまに戯れに遊ぶのは好むところであるが、しかし、整合性の点から考えてやり切れず、まともにプレイすることができない。
T屋氏はこう答えた。
「それはメタストーリー視点を持てない人間が見ているからそうなる。この種のゲームをプレイする時、キャラクターの心情を理解する必要は無い。我々は一歩引いたところから、受像機からドラマを眺めるように、そのキャラクターの悲劇を見て感動し、カタルシスを得るのだ。」
もちろん、ある程度の整合性を取るためにキャラクターの心情を理解する必要はあるだろうが、そういうことではなく、キャラクターをさも自分の分身であるかのようにその痛みを想い、苦悩に魅入られるのはやはりドラマの観察者としては不健全だ、ということである。
これはかなりエポックメイキングな話である。そしてこの路線ならば、恐らく、FEAR系のゲームが痛々しくてプレイできないという人は、虚構に対する付き合い方を学べていない未熟人ということになる。