虚構に対する敏感と鈍感

 昨日出した結論をT屋氏にぶつけてみた。返ってきた結論はこうだった。
 「それは君がその手の感覚に対して敏感であり、そうでない人はその手の感覚に慣れきって鈍感なだけではないか。例えば辛さに対する感覚と同じように。」

 つまり、こういうことだ。
 一話で物語の持つ重みを表現するため、TRPGは強度のカタルシスを発揮させるように進化した。それはより悲劇の質が濃く、プレイヤーに負担を要求する。しかし、その負担に慣れたプレイヤーは味に鈍感になるように、悲劇に対して鈍感になる。そのため、より強度の悲劇と、より強度の物語性を、日常逸脱性をストーリーに求める。その結果、その悲劇と物語性の深化についていけないプレイヤーはその刺激の強さに耐えられないのだ…と。
 はたしてそうだろうか?
 俺は、この場合でいう"FEAR系"のゲーマーを決して鈍感だとは思わない。むしろ自分よりよほどセンシティブだと思う。しかし、実際のところはどうなのだろうか。
 つまり、自分はもう現行の虚構を楽しむことができないほど致命的に、虚構に対して不慣れになってしまった人間なのか。
 それとも、この種のプレイヤーが、虚構における刺激の強さに慣れきってしまった状態だから、そうなのだろうか。