メタゲーム視点ではなくメタストーリー視点

ゲームデザイナーのT屋(殊に名を秘す)氏と宴席で会話する機会があった。
そこでシミュレーションゲームとしてのTRPG、物語としてのTRPGなどの話をしていたのだが、俺は面子も面子だったので、思い切ってこう発問してみた。
「皆は、なぜ、"FEAR系"で括られるような、悲劇的で、救いようのない…明らかに死が迫っているだけで、もうその状況を打開する方法がないキャラクターを、演じることが出来るのか? もうどうしようもないことが、プレイヤーが理解できているのに、なぜそこに、身を投じることが出来るのか?」
俺が言っているのはブレカナあるいはダブクロに代表されるゲームだ。キャラクターの勝利が決して無いことが、システムで暗示されている。こうしたシステムをたまに戯れに遊ぶのは好むところであるが、しかし、整合性の点から考えてやり切れず、まともにプレイすることができない。
T屋氏はこう答えた。
「それはメタストーリー視点を持てない人間が見ているからそうなる。この種のゲームをプレイする時、キャラクターの心情を理解する必要は無い。我々は一歩引いたところから、受像機からドラマを眺めるように、そのキャラクターの悲劇を見て感動し、カタルシスを得るのだ。」
もちろん、ある程度の整合性を取るためにキャラクターの心情を理解する必要はあるだろうが、そういうことではなく、キャラクターをさも自分の分身であるかのようにその痛みを想い、苦悩に魅入られるのはやはりドラマの観察者としては不健全だ、ということである。
これはかなりエポックメイキングな話である。そしてこの路線ならば、恐らく、FEAR系のゲームが痛々しくてプレイできないという人は、虚構に対する付き合い方を学べていない未熟人ということになる。